シイラまだ~?

先週、木曜~金曜といい感じで北東の風。
アゴもたくさん入ってる情報もあり、
いよいよか!?
っと土曜日に行ってきました。

夜明け。
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風もアゴもいい感じなんだけどなぁ。
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結局、午前中いっぱいで撤収。

シイラは、やる気の無いのが1匹で
フラ~っと泳いでるのを見ただけでした。
まだ大きな群れは入ってきてないみたい。
今週またチャレンジです。

「ためらいの倫理学 - 戦争・性・物語」-2

第2部「なぜ私は性について語らないか」

【正義の人】
・私は「正義の人」が嫌いである。「正義の人」はすぐ怒る。「正義の人」は他人の批判を受け入れない。「正義の人」に理解できないことはない。
・マルクス主義者(プロレタリア)とフェミニスト(女性)
・ある条件が満たされると自動的に陥る「蒙昧」というものがあることを私は信じる。だがその反対に、どのようなものであれ、ある条件が充たされると自動的に獲得される「明察」というものを私は信じない。
・さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。
【男だろ】
・呪符的効果の「現実性」
・「野生の思考」
【上野千鶴子、他「男性学」】
・上野の興味は「男たちというのはどういうものか」の学的解明よりも「男たちをどう動かすか」という政治的操作に傾いている。
・私は上野のこういうマキャベリズムを批判しているのではない。上野の不誠実さは意図的なものであって、底にある政治的判断は間違っていないからだ。ただし、私はそれを「学」とは呼ばない。
・フェミニズムが近代的システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーである限り、近代文明に対する一種の「野生」の側からの反抗である限り、それは社会の活性化にとって有用である。だが、有用ではありうるが、それは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のものである。
【正しい日本のおじさん】
・フェミニズムを批判する暇があったら、妻と親しんだり、子どもたちと遊んだり、学生の相談にのってあげたり、困った人を助けてあげたり、システムから落ちこぼれそうな人を支えてあげたりしている方がよいと思う。そういう等身大の穏やかな営みをつうじて、家族と地域社会と職域の集団を支えてゆくのが「おじさんの道」だろうと思う。
【売買春制度】
・私たちの性的欲望というものは、擬制としての性制度や性道徳に媒介されてはじめて「かたち」をとる以外に表現の仕方をしらない。
・法が性を規制してきたのは、抑圧するためではなく、管理するためである。
・「性の自己決定」は、包括的な性制度の中における「いろいろなオプションの選択可能性」という以上の意味を持つことはない。であるかぎり、それが制度そのものへのラディカルな批判となることはありえない。
・それゆえにこそ、「性の自己決定」は理念的水準ではなく、例えば性制度の中での人権問題というような現実的水準においてこそ有意である。それは政治の水準の仕事である。
【セックス・コンシャスネス】
・自分が何かするときに、まず「男らしく」とか「女らしく」とか「そのような性規範そのものを批判するために」とか、とにかく性という問題設定がまっさきに意識されるような思考の不自由さ
・抑圧されるものは過剰に意識化される。欲望は禁止によって昂進する。だったらぜんぶ解放してしまって、そういうものに煩わされるのはもうやめましょう、というのが上野千鶴子の主張である。この点について私は(生まれてはじめて)上野に大賛成である。
【ショシャーナ・フェルマン「女が読むとき、女が書くとき」】
・フェミニスト的な読み手とは、自分がいま読みつつある「テクストの中に」男性中心的なイデオロギーを発見する人ではない。そうではなくて、あるテクストのある箇所を「読むつもりのなかったもの」として読み飛ばしつつある「自分自身の中に」男性中心的な読みのモードを発見する人のことである。
・テクストの「自己逸脱」
・「トラウマ」の物語
・「女として」経験されたことを言語化するための言語を女は持たない。何かが経験された。それは「偽りの記憶」として迂回的にしか語り出されない。そのようにして「物語」が語られるためには、それを信じ、それを享受し、それを語り継ぐ他者が介在しなければならない。
・何かが言葉に命を与え、その代償として言葉の中で死ぬ。私たちはその「何か」に、生きたままの形では決して触れることが出来ない。それは消え失せることによって、はじめて「何かがあった」ことを事後的に回想させる「痕跡」だからだ。
・「男の自伝」もまた「トラウマ」となる他ないのである。

(まだまだつづく)

「ためらいの倫理学 - 戦争・性・物語」-1

内田樹
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4043707010

内田樹の単著では第1作目。
この人の本は結構な冊数読んでるけど、
絶版になってた(文庫化されてはいるんだけど)事もあって
なかなかこれを手に取る機会がなかったところ、アマゾンで中古品を入手。

読んでみるとさすがに最近の対談本とかと違って、
ひとつひとつの論述が丁寧と言うか深いと言うか重いと言うか…
それぞれのテーマで展開される個々の主張も重要だけど、
それを導く「知性のありかた」にものすごく目を開かせるものがある。
一読みしてサッとダイジェストを起こすなんてマネは出来ないので、
ちょこちょこ読み返しながら、印象的な箇所を抜き出してみます。
(論評じゃないから若干の改竄は許して。)

まずは第1部。
「なぜ私は戦争について語らないか」

【意見を言う資格?】
・賛否の判断をするのに十分な情報というものはありえない。
・アメリカ的民族誌的奇習
・私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれぐらい疑っているか、自分が見たものをどれぐらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれぐらい意識化できるか、を基準にして判断する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。
【悪意が起こすのではない】
・「だれが」それを起こしたのか、というような問いは無効である。全員が「自分こそ最初の、最大の被害者である」と思いこむ人々のあいだで、はじめて破滅的な暴力は発生する。暴力の培地は悪意ではない。おのれは無垢であるという信憑である。
【教科書問題(従軍慰安婦問題と教育観)】
・近代国家はどこも多くの恥部や暗部を抱え込んでいる。こうした国々で、中学の教科書が「自国の歴史に誇りを持たせる」ために恥ずべき歴史的事実を教えないで済ませていたら、私たちは納得がゆくまい。無知に基づく「誇り」はただの夜郎自大にすぎず、そのような「誇り」に昂然と膨れ上っているものは、決して「国際的威信」を得ることはできない。
・現代の中学生は無菌室の中にいるわけではない。「人間の暗部」は「暴いて見せる」ものどころか、彼らの「日常」である。
・風説を信じるな、メディアを信じるな、教科書を信じるな、教師を信じるな、親を信じるな、今こう語っている私の言葉を信じるな。このダブル・バインドに耐える知性を自力で研ぎ上げてゆくほかに、子どもたちが成熟し自立するための手だてはない。
【戦争経験】
・フロイトは患者たちが告白した「過去」の信憑性を疑うようになった。彼の偉いところは、「なんだ、事実じゃなかったのか」と放り出さずに、外傷経験の主体にとってはそのような経験が「事実」として生きられているということの重要性を、客観的な事実性とは「別の水準」で認知しようとしたところにある。そこで語られるのはある種の「伝承」であり、「物語」である。それについて「真相はどうなのだ」「証拠を見せろ」などと絡む人たちは、「厳密性」の名のもとに、ほんとうに聞き取るべきものを聞き逃しているのではないだろうか。
【政治的正しさ】
・ある政治的私見が公共的な「正しさ」の準位に達するために必要な唯一の条件は、「政治的な自由」によって支持されるということである。選択する人々が「政治的に自由であること」、それだけが「政治的正しさ」の正統性を保証する。だから、ある政治的立場に与しないものからは政治的権利を奪え、という主張は、どれほどその「政治的立場」が正しくても口にしてはならない言葉である。
【どっちつかず(「君が代」と「日の丸」)】
国家と国民の関係は「ねじれ」ていて当たり前なのである。国家の名においておかされた愚行と蛮行の数々。それと同時に国家の名において果たされた人間的偉業の数々。その両方を同時に見つめようとしたら、私たちの気持ちは「ねじくれて」しまって当然なのである。それをどちらかに片づけろというのは、言うほうが無理である。
【国民国家】
・国民全体が同じ資格で国家運営にかかわる民主主義的国民国家が成立してはじめて、戦争は国民全員によって担われる「総力戦」となり、そしてそれはもう誰のものでもなくなる。
・「国民国家」の成立とともに、将軍と政治家によって担われていた軍事的・政治的なファクターが後景に退き、国民が分泌する「憎悪と敵意」という非政治的な情念が戦争の「主体」の地位を独占するに至った。
・「国民」、この「想像の共同体」を統合しているものは、積極的な「本質」や「同質性」ではなく、その存在を脅かすような「敵がいる」という信憑である。場合によっては戦争が始められた「後になって」はじめて「護るべき共同体がそこにあったこと」が回顧的・事後的に承認されるような仕方で私たちは共同体を成り立たせる。
・戦争が国民国家と同時的に生起する現象である限り、私たちの紡ぎ出す言葉や論理が、国民国家内部的な言説市場を行き交うものである限り、どれほど善意に溢れていようと、どれほど怜悧であろうと、それらの言説が国民国家という「想像の共同体」に濃密な「リアリティ」を与え、「敵意と憎悪のエネルギー」を備給してしまう可能性からは逃れられない。
【悼むということ(文学の本来的な使命として)】
・大岡昇平「レイテ戦記」
・ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」
・村上春樹「アンダーグラウンド」
・無意味な死を、いかなる正当化し有意味化する言説にも回収させず「無意味なもの」として語り抜くこと。
・「哀悼」は「人間一般の基本的欲求」というほど素朴なものではない。それは、死者の霊を鎮めると同時に死者の罪過を白日のもとに曝し、おのれの邪悪さを摘抉しつつ正義と邪悪の二元論からは身をよじって逃れるという、いくつかの困難な企てを同時に果たしうるような具体的でタフな「物語」を立ち上げることを意味している。
・正義が峻厳にすぎないように、赦しが邪悪さを野放しにしないように。

(つづく)

「Bowling for Columbine」

監督・脚本: マイケル・ムーア
"Bowling for Columbine" Written & Directed by MICHAEL MOORE
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00008HC54

3作目。
発表年は先の2作品より前の2002年。
コロンバイン高校での銃乱射事件をきっかけに、
銃問題を問いかけるドキュメンタリー。
銃規制が緩いからとかの単純な原因ではなく、
「恐怖によって操られるアメリカ社会」を浮き彫りにする。

・武装の権利
もともと政府を倒す権利(使命)として、憲法で守られている。さらに自衛意識。
・コロンバインの事件
1999年4月20日、コロンバイン高校でエリック・ハリスとディラン・クリボールドは12人の生徒と1人の教師を射殺。発射された900発を超す弾で数十人が負傷。凶器の銃は銃砲店や展示会で合法的に入手し、弾の多くは近所のKマートで買った物だ。最後に彼らは自分たちに銃を撃った。
・全米ライフル協会会長ヘストンの演説
・原因探し
・非行対策強化
・マリリン・マンソン?
事件の朝、2人の容疑者はボウリングをしていたそうだ。ではなぜボウリングが悪影響を与えたと非難されない?ドイツでのゴシック・ロックの人気は?フランスに暴力映画はない?暴力的ゲームの多くは日本製だ。家族崩壊や離婚率は英国の方が高い。貧困こそ暴力の原因?だがカナダの失業率は米国の2倍だ。むろん暴力は米国の歴史とする意見が有力だ。だが他の国の虐殺の歴史はどうだ?
にもかかわらず銃による年間の犠牲者は?ドイツ381人。フランス255人。カナダ165人。英国68人。オーストラリア65人。日本39人。アメリカ合衆国11,127人。米国人は何かが違うのだ。
・恐怖の植え付け
・犯罪者は黒人?
米国人はネット局や地元ニュースによって、自分の町は実際よりもずっと危険だと信じ込まされてる。犯罪は減少し続けてる。だが犯罪への恐怖は増すばかり。おかしいじゃないか。
・カナダは?銃の所持率も高い。
家族が米国にいるわ。カナダから越したんだけどまるで違うのね。とても脅えてるわ。そしてみんなすぐキレるの。一瞬にしてね。考えも何もなくすぐ銃を抜く「ウチの土地に入った」とか。ヘンよね。
・最年少銃殺事件
・9.11
9.11後の数ヶ月間、米国人は恐怖のどん底に。我々も悪の実行者に殺されるのか?飛行機で隣の男は靴に導火線を?恐怖は現実的だった。募る恐怖は大勢に利益をもたらした。儲けてるものが大勢いて、皆の恐怖が持続するように動いてるからだ。
・Kマートの対応
・再びヘストン

「9.11以降、ボクにはナゾがたくさんあるが、これは確かだ。9.11以降でも以前でも、恐怖に理性を失った人々は銃を身近に置いてはいけない。」

あと印象的だったのはマリリン・マンソンの誰よりも知的なコメント。
以下引用。( )内はムーアの質問。

なぜオレが攻撃されるのか分かるよ。オレを犯人にすれば簡単だからだ。つまりオレは「恐怖」のシンボルってことさ。皆が恐れるものの象徴なんだ。言いたいことも言うし。あの悲惨な事件には、副産物が2つある。娯楽における暴力と銃規制の問題だ。この2つは秋の大統領選挙の争点ともうまく重なる。しかも人は大統領のスキャンダルやよその国を爆撃してることを忘れてる。そりゃおれは悪者さ。ロックを歌ってるから。でも影響力はどっちが強い?オレは大統領の比じゃない。(あの事件と同じ日、米軍がコソボで最大の爆撃を行ったのは?)ああ知ってる。全く皮肉だよ。大統領のせいで事件が起きたとは誰も言わない。メディアの望む恐怖の生産法と違うからだ。人は毎日テレビのニュースを見て、恐怖を詰め込まれてる。エイズに洪水に殺人事件。ぱっとCMに切り替わって「コルゲートを買え。息が臭いと嫌われる。」「ニキビ面だと女の子とヤレない」。まるで恐怖と消費の一大キャンペーンだ。米国経済の基盤はそれだ。恐怖を抱かせて物を買わせる。突き詰めればそういうことさ。(コロンバインの生徒やあの町の人々に話すとしたら何と言う?)何も。黙って彼らの話を聞く。それが大事だ。