ようやく出ました!

  • Day:2011.04.29 01:21
  • Cat:Apple
震災の影響で(というかまあいろいろ配慮して)
発売が延期になってたiPad 2。
昨日発表があっての、いきなり今日販売開始。
(やっぱり、あまりお祭り騒ぎにならないようにっていう配慮か?)
で、早速昼過ぎにApple Storeに行ってきました。

いや結構並んでたけどw。

いつ出てももう買うつもりでいたし、
機種変で分割だとお金払うこともないし、
手続きもあっという間だったし、
なんだかあっけなく終了。

在庫もまだまだ潤沢にあるようです。

さっきからいろいろとセットアップ中。
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前のが黒だったので今度は白です。
カバーは純正のSmart Cover。
PRODUCT REDのレザーの赤がいい感じ♪

白いガラスパネル見ると、
ああ、確かにこりゃ塗装難しいわ、と思う。
微妙にエッジに段がついてるんだけど、
塗装+シートでなんとか妥協したのかな、たぶん。

あ、白のiPhoneも何人か買いに来てた。

久しぶりの生月

原発云々はひとまず置いといて。

昨年の11月以来だから5ヶ月ぶりの生月。
北東風なのでポイント争奪戦になるなぁ、
と思いながら、朝一はまず大バエに。

西側のワンドでちっさいのが相手してくれました♪
45cmぐらい。
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気がつくとルアーマンが7人もいた!
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なので早々に退散。
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波止のテトラをひととおり探ったけど当たらず。
ベイトは結構いたんだけどなぁ。
もう誰か叩いた後だったんだろうか?

んで昼前に平戸側の白石の地磯に。
いい感じのサラシだけど、
この潮位だとアプローチがものすごく難しい。
もっと潮が引くと、そこに見えてる右側の岩に乗れるんだけど。
しょうがないから岩越しに狙うけど、
ルアー通せるところがほとんど1ヶ所に限られる…。
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そういえば、ウエットスーツなら入って行けたんだ!
そのために買ったのに!

でもいろいろ試して最後にやっと引きずり出した52cm♪
やっぱヒラスズキかっこいいなぁ♡
小さいけど、久しぶりだから満足。
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魚は結構多いみたいだから、
西風が吹いてくれるといいんだけどな~。

んで帰りにちょっと伊万里によって、
ハマグリを少々。
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まな板のヒラスズキ。
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洗ってウロコとヒレとって内蔵とって、
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3枚に下ろす。
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背中側は切身、腹身はお刺身用に。
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お刺身~♪
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あんまりまとまってないけど原発その他もろもろ(その2)

【「理論や数値」の受け止め方】
前項で「放射線の危険性は、理論と測定値とたくさんの臨床データでしか計量できない」と書いた。この「理論」や「数値」、「データ」に接した際の態度について今回、人によってかなりの質的な違いがあるように思う。単純に分けてしまうと、今回のような人の命がかかるかもしれないような状況で、「そんなものに命を預けるとかありえん!」というとにかく拒絶反応を示す人と、そのような人に対して「は?そんなの普通にいつもやってる事じゃん!」という2つの態度だ。

あまり適切じゃないかもしれないけど、ここではとりあえず前者を文系、後者を理系的な態度としておく。ボク自身は理系タイプだ。

前項でマズいと書いた悲観/楽観の図式に当てはめると、前者=文系=悲観論者、後者=理系=楽観論者となるが、まず最初に誤解を解いておきたいのは理系は決して楽観的ではないということだ。「これ以上はマズイ」と判断した場合、真っ先に逃げ出すのはむしろ理系のほうである。もしそれが楽観的に見えるとしたら、「これ以上はマズイ」という判断の閾値がピンポイントに設定されていて、そこに至るまでは「まだ逃げなくて良い」と言ってしまうからである。

どうして理系人はそのような考え方なのか。

まず「基準値」とか「許容値」とかいう「数値」について。
おそらく多くの文系人はそれが「安全」と「危険」の境界線であり、それを元に安全に関するルールが作られていると思っているのだと思うのだが、実はそれは順序が逆である。まず「安全」と「危険」のあいだに境界線なんかない。なぜ?と聞かれても困るのだ。だって現実の世界はそういうふうに出来ているのだから。そして「数値」というのは、例えば「その値に達したら逃げるのだ」という公的なルールを作るのに必要だからという理由で後から誰かが決めたものなのである。だとするとそこで決められた「数値」は、科学的に自明な、誰が計算しても同じになるような類いのものでないことは明らかだ。理論やデータが完璧でないのは当然として、時代や社会や関わった人たちのさまざまな思惑や都合や価値観が入り込んでいる。簡単に言うと理系人にとって信用できない、気持ちの悪い数字なのだ。

だから良識のある理系人は、そんな「数値」をはじめは信用しない。必ずその「数値」が何を意味しているのか、ルールとして妥当なのかどうかを吟味しようとする。これはもう習性として身に付いている。そして、だけれども(というかだからこそというべきか)妥当であると自ら判断した場合には、ルールとして粛々とそして厳密に「数値」に従うのだ。そうすることが現実の世界を有効にハンドリングするための工学という道具なのである。だから理系人は「数値に達するまでは逃げない」。

だが残念ながら、もう一つの側面もあるかもしれない。
数値が妥当だと思われない場合には反論もする。あるいは反論が間に合わないと思う時には独自のルールを作ったりもする。これらは吟味の結果としてはありえるが、吟味なくして反論も独自ルールもありえない、というのが理系人の倫理観でもある。つまり理系人が反論したり独自ルールを唱えたりしないで楽観的あるいは肯定的に振る舞うのは、単に「怠けている」からかもしれない。これを区別するのは正直かなり難しそうだ。

いずれにせよ、文系人に限らず多くの人が「数値というのは、権威のある機関がちゃんとした根拠の元に計算して様々な検証を経て決められているはずだ。というかそうでなければならない。」と思ってるだろう。もちろんそうなっているのだが、あくまでそれは「可能な限り」そうなっているのである。だから厳密に言うとそれらは常に「暫定」で、だから常に「検証」が必要だ。そういうと途端に不安になるかもしれないが、そもそも世の中のあらゆる命に関わるルールがそうなのだ。建造物の耐震強度も交通機関の運行も薬物や添加物の摂取量も、みんな平気で命を預けているが、実はやっぱりそうなのだ。


【安全率】
その時点でもっとも妥当とされる理論とデータに従って、ある確率を目指して、さらに適当と考えられる安全率を見込んで「数値」というのは決められているのだが、この「安全率」についてたまに見当違いな解釈が見られるのでちょっと補足しておく。

例えば、3倍の安全率が見込んであるとする。
これを「3倍安全なのだ」と思うのはとんでもない間違いなのだ(たまに似非専門家が解説で言ってるが)。

安全率を決めるのにも当然理由がある。ある理論モデルが十分に緻密に構築されていて、不確定要素がほとんど影響を与えないと考えられる場合に、安全率は1.0に近くなる(1.1とか1.25とか)。逆に理論が粗雑で、モデルに組み入れられていない不確定要素がたくさん影響すると考えられる場合には大きくなる(3.0とか5.0とか10.0とか100.0もある)。つまり3倍の安全率が見込んであるということは、3倍の安全率を見込まないといけないほど不確定要素が多いことを意味していて、その分、モデルの信頼性は低いということを意味しているのだ。

だから、安全率をいくら見込んでいたとしても、決められた数値を超えたらとにかくNGなのだ。「数値を超えても安全率が○○見込んであるからもうちょっと大丈夫」なんて事を言う人を絶対に信用したらダメである。


(書き始めた時とちょっと論旨が変わった気がするが、一応完結。4/14)

あんまりまとまってないけど原発その他もろもろ(その1)

ちょっと抽象的なところで考えを整理してみる。

個別の状況はまだ予断を許さないし流動的だけど、
おおよその今後の展開もいろんな予測が出揃っているし、
追いかけてるだけだと、
なんかゴチャゴチャと拡散していくばっかりなのでね。


【復興の記憶】
これまで反核とか反原発の運動って、表面的にキーキーヒステリックに騒ぐ割にどこかシラケた雰囲気があって、いまひとつ環境保護とかみたいに太い流れになりきれない印象がある。(反論する人も多いと思うけど。)
1つには安全保障とか経済の基盤だとかっていう野太い現実問題に対してわかりやすい対案を示せてないっていうプラクティカルな面もあるけど、どうもそれだけじゃないなと思った。

それは被爆地の広島も長崎もあまりにも見事に復興してしまったこと。

これではまず世界の(特に核兵器を必要と考える)人たちに対して説得力を持てない。核兵器がいかに破滅的な兵器なのだと主張したところで「おまえらぜんぜん破滅なんかしてないじゃん!」と返されるのは目に見えてるし。

そしてもっと致命的なのは、日本人自身がその復興を「成功の記憶」として深く内面化してしまっていることと、その自らの生を肯定するはずの記憶を、反核(とか反原発)を唱えるには抑圧しなければならないという皮肉をかかえこんでいることだ。もちろん反核を特に主張しない場合も同様。日本の社会で、核や原子力の文脈で、「だけど俺たちちゃんと復興できたじゃん?」は禁句だ。

おそらくこの抑圧された記憶は、いろんなところでいろんな症状として回帰してる。反対運動のヒステリックさもその現れだし、今回の事故の報道とそれに対する反応で悲観的に騒ぎ立てる立場も静観を促す立場も同じようにその影響下にある。あるいは東電や政府の危機管理体制にも反映してるだろう。

トラウマを逃れるには、なによりもまず抑圧されたものが何であるのかを自覚し、ハンドリング可能な「物語」に回収することだ。


【放射線の恐怖、危機管理】
「なんだかよくわからない恐るべきもの」の扱い方について内田樹氏が書いている。
http://blog.tatsuru.com/2011/04/08_1108.php
違和感を感じる箇所はあるが、人類学的な蓄積(知恵)を大事にすべきという主張の大筋は同意。

それとはちょっと違う話になるが、放射線による危険は少なくとも地球上の既存の生命には知覚されない。大気によって放射線の危険が無くなってからようやく生命は進化がスタートしたのだから、これはもう原理的な限界と考えた方がいい。だから何億年もの進化の過程で生命がその遺伝子に刻み込んだはずの危険察知(もしくは回避)能力は、放射線に対しては何の役にも立たないはずである。

放射線の危険性はだから、理論と測定値とたくさんの臨床データでしか計量できないし、その根拠の妥当性やデータの信頼性をひたすら追求し続けることでしか、正しい判断には近づけない。

今回の事故で、何かしらの身体感覚や虫の知らせが危機を告げるとしたら、それは放射線の恐怖ではなくて、事故よる社会的混乱や、さらにそれによる身の回りの様々な困難を予期してのものだ。その予期にもとづいた疎開とかに異論はないのだが、そのあたりの切り分け(数字/感覚、放射線/社会的混乱)が出来てないことによって、議論が単純な楽観論と悲観論の対立に回収されてしまってるのはマズい。

特に問題だと思うのはやはり身体感覚から語られる悲観的な危機管理論(「最悪の場合を考えて」)だ。一時的に世論を盛り上げることは出来ても、最終的にはデータを駆使した擁護論に押し切られるのが今までのパターンだけど、なぜそうなってしまうのか。

そもそもどういう状態になったら「最悪」な状態なのか。立場によって評価は違うけど、「最悪」を「想定されうる状況のなかでもっとも悪い状態」のことだとすると、例えば今の福島の状態を「最悪だ!」とする人の想定は、「まだ最悪に至ってない」とする人の想定よりも「甘かった」ということだ。つまり、より酷い「最悪」を想定すればするほど、現状を「最悪」と評することが出来なくなって、悲観論者は身動きが取れない。(というか酷い想定をするほど現状には楽観的になってしまう、という方が正確かな。)これは皮肉な逆説だけど楽観/悲観の二元論で考える限り避けられない帰結だ。

もちろん、個人的に酷い想定をして早めに逃げだすのは別に構わないし、当然そのほうが生き延びる可能性は高いけど、公的な危機管理体制を「最悪の場合を考えて」で論理づけることはむしろかえって危険な事なのだ。


(とりあえず完了。4/12)

桜と魚

水曜日は仕事場の花見。
室見川の河川敷です。
桜は7分咲きってところか。
天気も良くてポカポカ♪
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それから、夜になってから唐津へ。
唐津城の夜桜は平日だからかライトアップも無く。
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12時満潮からの下げ始め。
時々コツンと当たるのも掛からず、
ボラか何かいるのかな?と思ってると…
赤ちゃんが引っ掛ってきた!w
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ちょっと流れが安定しなくて、
いまひとつ条件良くないなぁと思いながらも
粘ってると…
2時間後、ゴン!と来ました!

腹ビレのあたりにフロントフックが掛かって、
なかなかこっちに向けられないまま、
だけどなんとか寄せてハンドランディング。
82cm、たぶん4kgぐらい?
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まだガリガリに痩せたシーズン最初期の魚体ですね。
吐き出したエサはなんとユムシ!
あんまり美味しくなさそうだったので
海にお帰りになっていただきましたw。

今シーズン3回目のチャレンジにしてようやく1本。
今年は遅れてるのか不漁なのか?
まあとりあえず釣れたのでちょっと安心しました。
これから調子が上がってきたら良いなぁ。